超高齢だけど不妊治療やってます

40半ば、高齢不妊治療中。軽度男性不妊のパートナーと顕微授精に挑みます。

7周期目 D10 転院&顕微授精再開


前回の記事を読み直して、恥ずかしながら「ああ、ここで終わってるのか」と気が付いた。

検査薬で陽性が出たものの化学流産。
次の周期はクロミッドと黄体補充を試みてかすりもせず。

そしてここへきて、来年の春にパートナー君、国内遠方へ1年の長期出張が決まった。
長女の習い事などが本格的になってしまっているのでこのタイミングで全員で移動するのは無理がある。
1年妊活ができないとなると、私の年齢ではもう可能性はゼロだろう。

残り8か月にかけるのか。

現状を見てみると、化学流産が続いたことから受精卵の異常があることははっきりわかる。
パートナー君の精子にも問題があるわけだが、ほぼほぼ恒例による私の卵子エラーが原因だろう。


二人で数日間話し合う。
パートナー君は、副作用が強く治療がかなり辛かったので無理をして欲しくないとのこと。

私は諦めたくはないと言った。
受精卵の凍結や凍結精子でパートナー君の不在時にも治療ができる。
昔あった近未来小説のようで気が遠くなる計画だが、今やれるのはこれしかない。
パートナー君から快諾を頂く。

このところは顕微授精をしていた京野クリニックからステップダウンして木場公園クリニックに通っていたのだが
木場公園クリニックは婚姻関係の無い体外受精は行っていない。
京野に戻ることも考えたが、最後に診察を受けた医師のよく分からない対応に気が引けて、新たな転院先を探すことにした。

これまでは大きなクリニックが多く、いい意味でも悪い意味でも流れ作業の感があったが、次のクリニックは知人の話もあり
医師一人が担当してくれるところにしてみようか。また、少し違ったアプローチで特に卵子の質に気遣ってくれるところはないだろうか。

検索していると、なんと希望にぴったりのところがある。高齢不妊にも実績があるようだ。
早速初診の日を決めてきた。


さて、今日はD11。
排卵検査薬の開始が遅くなり、うまく陽性をキャッチできなかった模様だが、おとといからタイミングを開始した。
初診の日が近いが、この場合はどうなるのだろうか。

私たちの妊活はまた新たなフェイズに。
とりあえずやってみるしかないじゃないか。

 

5周期目 D21 高温期10日目:陽性?!

6月に入ってからずっと仕事も友人との約束も忙しくて、なんとか基礎体温をつけるのみ。

高温期7日目からフライングを開始するも、2日間HCG妊娠検査薬は真っ白。しかし、排卵チェックの参考のため一周期まるっと計測することにしたLH排卵検査薬は、生理に近づくというのに少しずつ濃くなっている。こんなこと有るんだろうか。

今日高温期10日目朝。
体温は下がり気味。
いつも通り先に排卵検査薬が反応。昨日程度か。妊娠検査薬は真っ白。ああやはり。私はLHがずっと少量でているタイプらしい。

妊娠検査薬は捨てて排卵検査薬を台紙に貼ろうとしていたら、妊娠検査薬の判定ラインあたりにぼんやりした影を発見。パートナー君に見せているうちに、薄い薄いピンク色の太い線になった。

いままでの幻のような線と比べてあまりにはっきりしているラインに唖然。HCGが出ていなければ絶対に反応しないわけなので、これは陽性なのだろう。

いろいろ条件悪いのに、頑張ってくれてありがとう!!

嬉しさと感謝の言葉が浮かんだが、なんだかきっついプロジェクトに突っ込んでしまった部下にかける言葉のようなのしか出てこず。

着床したのは間違いがなさそう。
もしや、ここから黄体補充やらをした方が良かったりするのか?
時間になったら、病院に電話して対応を聞いてみようと思う。

5周期目 D12 高温期1日目

排卵終了。D11、12と排卵検査薬が陽性になり、下腹がしくしくしていたのでおそらく昨日排卵

前回は遅くて今回は早め。薬渦からやっと戻りつつあるのかもしれない。
 
排卵検査薬にも慣れてきた感がある。今期はタイミングで乗り切る予定。予測した排卵に沿って仕込みは完璧のはず。これで妊娠すれば世話はないが。
 
パートナーくんは試験の第一波が終わり、オールクリアの快挙。特に最後のものはかなり難しいものだったため、張り詰めていたのが溶けたらしく、なにやら壊れている。
 
ひょっとしたら年単位で単身赴任になるやもしれず。寂しいが、まあそれならそれで仕方ない。人生、やりたいことをやって欲しい。
 
 

高学歴専業主婦はもったいない論争

先日炎上していた「はてな」の こちらの記事。

元ネタはブログごと削除されてしまったのだけれど、ニュースにまでなっているとは。

(しかも私のコメント引用されてるんだけど)

r25.jp

次のエントリで「やっぱりこのネタで釣れた釣れたww」とご本人がやってしまったのは大変残念なのだが、最初の記事を見る限り、この人がなんで叩かれるのかよくわからない。全部本当のことだ。本当のことをそのまま言っただけで「上から目線」なのか。

「普通にしてるのに上から目線だと言われる、大学名を言っただけで、勉強がいくらできてもうんたらと説教モードに入る年長者がたくさんいるわ、妙にトゲトゲつっかかられるわ。意識して腰を低く低くしてにこにこしてやっと、ひけらかさず腰の低い良い人だと言われる、だから学外の人には面倒だから言わない」と、知人談。

なので、表面的には腰の低さや無関心を装っているように見えるのだが、内面的には学歴と成果に自負を持っていい意味で自他を区別しながら生きている。そのように見える。

荒らしていた方々は全力否定するのだろうが、妬み、であることは明白だ。コメントを読んでも同じ立場の人からは共感されているし。

努力と才能の結果なんだから上から目線でよいではないか。確かに学歴が仕事の才能に直結はしていないシーンを見かけはするが、彼女の成果に対して、私は素直に素直に尊敬する。

以前どなたかが「東大を馬鹿にしたいから東大に入った」と言っていた。全く同意で 「狐とぶどう」は悲しすぎる。

 

道は拓けるのかしらん

本日二本目のエントリ。

生理は終わったけどルナルナだとブルー期らしい。なのでブルー期な文章を書いても良いんじゃないかと思う。

 
「次回はショート法で」と京野の院長先生に言われた。
低刺激であの副作用と卵巣の腫れっぷりだったのだから、本当に「命が縮まる」のではないか。
パートナー君はそう思っているらしいし、私もそうなんじゃないかと思う。
 
とはいえ、この悪条件下で自然妊娠の望みは薄い。漢方に頼って体を温めて運動。漢方の先生は「少し生薬が効いて環境が整ってから移植すれば?」と言っていたが、東洋医学は数値化したエビデンスがほぼ無いので、むしろ祈りに近いような気もする。
 
「ステップダウンしよう」
 
そう決めたのに、このところいつもブレている。京野ではAIH(人工授精)で妊娠した人は私の年では皆無という。診察の時、毎回先生方のちょっと困ったような顔を見るのがとてもつらい。
 
最後に京野に行った時のことを思い出してみる。たぶん初めて?の女医さんで感情が全く読めず、何を言っているのかもよく分からない。相性が悪かったのかもしれない。治療とは関係ないのに、パートナー君と一緒にかなり下のほうまで気持ちが落ち、帰り道に二人で「もういいよね」と言い合った。
 
もう一度、今度は絶対に文句を言わずにパートナー君(ひょっとしたら娘たちにも)に当たり散らさずないことを心に決めて、顕微授精に挑戦してみようか?結局のところ、何が正解なのかなんてわからない。
 
カーネギーの「道は拓ける」が座右の書である。
口にするのがちょっと恥ずかしいほど有名なこの本、有名すぎて手に取ることもなく何年か前に初めて読んだ。豊富な実例(実例よね?ほんとに。)を引き出しに、様々な立場の人が苦悩から解き放たれた手法をひも解いている。「情報収集と分析、決断と実行ができれば悩むことなど無くなる」と言っていて、この一年くらいはそれをモットーにしてそこそこ上手くいっていた気がする。しかし、カーネギー不妊治療のことなんて想定していなかったに違いない。
 
情報収集は「人のために情報を収集している」つもりになって手加減や都合の悪いことに目を背けることをせずに行え。
 
もしかしたら、一人称で考えすぎていたかもしれない。私がもし、私の立場の人にアドバイスするとしたらどうするだろうか。
「お金が許すのならば確率から言って治療したほうが良いと思うよ」
 
うん、これだなあ。どう考えても。
 
そういえば、ブログまわりの皆さんにおめでたい報告が続いている。本当に嬉しい。そう心から思える自分で良かった。

5周期目 D8 & 娘物語

結局今週期は治療をお休みしてしまった。

排卵検査薬はもう少しで開始。
 
中学受験生の上の娘と最近やりあっている。くだらないことである。自分で決めたゲームの時間を守らず開き直る。志望校には遠い成績なのにどうするんだ。。とは言わないが、決して安くない塾費用のことを思うとイライラ。これも言わないけど。
 
別に受けなくても良いんだよ。中学受験はコスパが悪過ぎる。私のように燃え尽き症候群になる可能性も低くないし、中学になってからガッツリやったほうが良い。比較的安くなるしね。
 
先月ピアノの師匠から「本格的に音楽をやるかやらないかそろそろ決めたほうが良い」と言われた。本人はやる気満々なのだが、音楽、特にピアノではほぼほぼご飯が食べられないわけで、師匠も「上手い子がいても正直迂闊に勧められない(笑)」と言っていた。
 
私も音楽専攻だったが英才教育型の楽器であるピアノのことはわからない。才能はあるのか。そろそろ決めろと言われるくらいなんだからまあ、そうなのか。そして他の習い事もやめないと言って聞かない。
 
難しい年頃です、やはり。
 

ちんたらダブルワーク

週に3日は「ウチの会社(自分のやっている会社)」、2日は「人の会社(契約でお手伝いしている会社)」。「ウチの会社」は立ち上げをしたばかりで、まだ関連の様々な方々と打ち合わせが多い。初対面の人としゃべることは好きだが後でどっと疲れるので、打ち合わせは1日3件程度にしてしまう。

私の筋の通ったキャリアは子育て中に途絶したのだが、あのまま働き続けていたらどうなっていたのだろうか。当時から会議も苦手だったし、別の部署のお話したことがない方に声をかけてランチに誘い情報シェア、みたいなことも好きではなかったので、下級管理職より上は厳しかったのではと思う。(しかしヲタクな男子をまとめるのだけは上手かった)

「ウチの会社」では全て自分で決めて事業の責任を取る。「人の会社」では決まったプロジェクトの内容を実現するべく私がプランニングするが事業の責任はとらない。

高性能のプリンターや会議室やジムやレストランのような社食や もろもろ。会社員とはなんて恵まれていたことか。また会社員になることがあったら、文句なんて言わずに感謝して働こう。

20年前に私がやりたかったことは、いまや無くてはならないものになっていてわくわくする。、しかし自分はそれに乗るタイミングを逸した。今はスキルの貯金を切り崩すか、良くてホールドの状態で仕事しているにすぎない。

疲れ果てていたあの数年で失ってしまった仕事への情熱。取り戻せるだろうか。